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バリマラソンと約束の地ニアス

 皆さんはその昔、バリ島で日本の企業が主催するマラソン大会が行われていた事をご存知だろうか!
タイトルは『NITTOHバリマラソン』 日東紅茶を製造販売する三井農林(株)がスポンサーとなり1987年に第一回大会がヌサドゥアビーチで開催された。
1987年から10年間続き第10回大会をもって終了している。
赤道直下常夏の島でマラソン大会とは思い切った発想だったと思う。
当初、フルマラソンと10kmレースの2種目が行われたが、後にフルマラソンはハーフマラソンに変更された。
当時、バリ島は第一次ブームの真っ只中でもあり日本から多くのタレントが参加し、テレビ取材なども行われ 大いに盛り上がりを見せていたので NITTOH 三井農林(株)の撤退は非常に惜しまれた。

 話は1993年の夏に遡る。
お世話になっている某サーフショップでは夕方恒例のHappy Beer Timeがおこなわれていた。
誰かが秋頃に皆んなでどっか旅に出たいっすねー、輪の中にいたまた他の誰かがいい波乗りたいっすねー、と叫んだ。
私はガルーダエージェントとして毎年10月に開催されていた『NITTOHバリマラソン』にランナーとして参加していて バリマラソン参加特別割引航空券の存在も知っていたので冗談半分でバリで走ってその勢いで北スマトラのニアス にでも行っちゃいますか!安く行けますよ~と提案したところ「おお、それイイネ!」と満場一致で決定。
ニアスは正面から写真を撮ると波の背景に椰子の木が生い茂っており、???疑問を抱いていた。
普通、波の背景は水平線か空だ。何で椰子の木なの?波はジャングルを抜けてやって来るの?とてもミステリアスだった。
ニアスの波は絵に書いたようなパーフェクションで誰もが羨む、サーファ-なら生涯に一度は行ってみたい憧れの地である。

 我々一行は先ずバリ島へ入り、『第7回NITTOHバリマラソン』の前夜祭に参加した。
会場でエントリー確認を済ませ、ゼッケンを受け取り、パーティ-会場へ。
すると軽食と共に大量の小型バックのアクア(ミネラルウォ-タ-)が山積みされていた。
お1人様1本と書かれている。
するとメンバーの一人がニアスのラグンディ湾ってジャングルの奥地にあって電気も水道も通っていないらしいと言い出した。
飲料水にも苦労すると聞いていたのでメンバ-たちは咄嗟にその小型パックのアクアを持ってきたデイパックに詰め込めるだけ 詰め込み ” 飲料水、確保 ” ととても満足気であった。
 翌朝、まだ辺りは真っ暗闇の中10kmレーススタート地点へ、レースは陽が上がり気温が上昇する前にゴール出来るよう日の出前にスタート。
皆んなやる気満々!と思いきや1人、2人と早々にリタイア、あれよあれよというまに私以外の9名全員はレースから離脱してしまった。
理由を聞くと筋肉痛になって明日からサーフィンに支障が出ないように皆んなで事前に示し合わせていたと言うのだ。
バリマラソン参加はあくまで旅費を安く抑える為の手段であって彼らの目的はニアスのパーフェクトチューブに挑戦することであった。
しかして我々一行は波の背景に映るジャングルの真相を確かめるべくニアス島のラグンドリ-湾へ向けてバリ島を後にした。

 ニアス島へ渡るには北スマトラの州都メダンから小型のプロペラ機で60分ほど大空を風に煽られながらブーンブーンと飛行する。
それはいいのだが心配は他にあった。小型機ゆえに貨物スペースが狭いのだ。
我々一行は総勢10名、しかも長めのボードを1人2〜3本持ち込んでいる。
ボードケースはバンバンに膨らみ見た目にも大荷物となった。
案の定、チェックインカウンターでは5ケースしか載せられないと言われ一同唖然。
そこで当時のインドネシアはまだ袖の下(アンダーカウンター)が通じる世界であったので現場のトップと見られる人物をつかまえ、 そっとあるものを手渡すとオーケーオーケー、俺に任せろと言わんばかりに我々のチェックインを担当していたスタッフに何やら耳打ちしている。

その直後、隅に置かれていた残りの5ケースをターンテーブルへと流し満面の笑顔を浮かべ我々に向けて親指を立てている。
チェックインスタッフのサムズアップで我々も一安心、早々機内へ。
約60分のフライトでニアスのグヌンシトリ空港に到着。
何と届いたのは最初にチェックインした5ケースのみ。
残りの5ケースはメダンに積み残されてしまったのだ。
空港職員に確認すると明日のフライトで届くのでお前らの宿は何処だと聞かれた、どうやら宿泊先まで届けてくれるらしい。
仕方ないので届いたサーフボードをシェアしながらその日をやり過ごし、翌日を待ったが夕方になってもサーフボードが届く気配はない。
当時のラグンドリ-湾ソラケビーチに電話は通っておらず、まして携帯電話など無かったので隣の港町にある電話局まで行くしかなかった。
そこまでの脚だがレンタカ-もタクシ-も無いので隣近所のローカル翁にオートバイを借りることにした。
現地ローカルスタッフを後ろに乗せ約10km先の港町テレクダラムを目指した。
借りたバイクは見るからにボロボロでタイヤの空気圧もバンクして いる状態に近くブレーキも殆ど効かない。
既に陽は落ち、あたりは街灯も無いことから真っ暗な中、今にも壊れそうなオンボロバイクを走らせた。
するとライトもまったく機能していなく足元の2〜3メートル先を微かに照らす程度だった。
これは参った、スピードは出せない。 しかし、電話局は20時に閉まると言う。
安全運転を心掛けスピ-ドを抑えながらも必死に先を急いだ。
峠を越え、道程も半分近くまで来た時、直線の緩い下り坂を走っていた、自分では速度を抑えて走行していたつもりであったが長い下り坂だった為、 知らず知らずの内に速度が増していたようだ、これはまずいなと思った瞬間、道が直角に左に曲がっている。
急いでブレーキをかけ足を道路に押し当てて踏ん張るもバイクは道路から外れ正面の草むらを突き進んだと思ったら空中に浮いていた。
草むらの先は崖になっていて川が流れていた。
ローカルスタッフを後ろに乗せたままバイクごと暗闇の川に水中ダイブ。

ハンドルに握ったまま前輪を下にバイクは沈んでいく『あっ、死んだ』一瞬覚悟したが、バイクは直ぐに川底に到達。
これならそんなに深くない、助かるかも、期待が頭をよぎった瞬間、後ろから体を羽交い絞めにされた。
なんとローカルスタッフはカナヅチで既にパニック状態だ。
こっちも必死である。
両手でローカルスタッフの腕を掴み顔が水面に出るように 持ち上げたが海面まで少し足りない。
そこで私は彼を持ち上げたまま海底を蹴ってジャンプを始めた。
ひたすらジャンプジャンプを繰り返し 彼も顔が海面に出て呼吸が出来るようになった事から落ち着きを取り戻し始めた。
私は川底を必死に蹴りながら川岸へ移動し 川にせせり出ている草を何とか掴ませて陸に上げる事が出来た。
その後、騒ぎを聞きつけ駆けつけてくれた地元の村人達に助けられた。
私とローカルスタッフは民家に運ばれ、ずぶ濡れの身体から水を拭き取り、暖かい飲み物を振舞われ、暖をとったが体は寒さと恐怖で未だ震えていた。
何とか命拾いしたという安堵から睡魔が襲ってきて、ウトウトとしていた時である。
耳元でプーンという音が右に左に響く。蚊の襲来である。
出がけに頭のてっぺんから足のつま先まで塗布してきた虫よけ薬は川の水ですっかり流れ落ちており蚊の標的となってしまった。
当時のニアス島はマラリアの宝庫でマラリアの島としても有名であった。
どのガイドブックにもマラリアに注意と書かれていたので十分に蚊対策をとって用心していたのである。
1カ所、2か所と刺され、全身に数か所刺されたころにはもう開き直っていた自分がいた。なるようになれである。
地元の青年たちは口にロープをくわえ暗闇の川へジャンピングイン、両輪にしっかりと4本のロープを結び付けて水面に上がってきた。
その後、村人総出でロープを掴み、川底に沈んでいたバイクを見事に陸へと引っ張り上げた。
そして、何とその1時間後にはブルン、ブルルルンとエンジンが雄たけびを上げて蘇ったのである 私が無事にサーフキャンプに戻ってこられたころは既に丑三つ時で皆んなが寝静まった後だった。
私の帰りが遅いことを心配して誰か起きて待っていてくれるのではないかという淡い期待は直ぐに消え去った。
 翌朝、丹野さーん、なんかバイクの持ち主が怒って呼んでますよ~という声で目が覚めた。
昨晩の出来事は私とローカルスタッフ以外は知らない。
戻ったのは真夜中だったし、バイクも問題なく息を吹き返し軽快に走ってきたので事故の報告はせずバイクを元あった場所に返していたのだが、 ヤバイ!バレタか! 
やっぱり秘密にはしておけないよな~、誰かが見てたのかもしれないし、正直に話して謝ろうと思っていたら ウインカ-のカバ-ケ-スが無くなっているがどうした?落としたか?無いと困るから弁償して欲しいと。 幾らかと聞くと日本円で50円程度であった。
『バイクも問題なく動くし敢えて報告しなくてもいいじゃない』ともう一人の私が囁くものだから誘惑に負けて一切報告はせず ウインカ-カバ-ケースだけ弁償して一件落着とした。
こちらも一歩間違えれば命を落としていたかもしれないのでその時は良心の呵責に苛まれることはなかった。
サーフボードは翌日無事に届き、その後は夢のようなニアスライフを満喫することができた。
 楽しい時はあっという間に過ぎ、ついに最終日を迎えた。
ローカルに再訪を約束し、後ろ髪を引かれる思いで帰路についた。

約束の地 おわり。

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