2010年初頭、我々は忙しい毎日を過ごしていた。
ちょうど2週間ほど時間があいたので弊社のインドネシア責任者 ”アオシマ” と 友人のマデ・スイトラを誘ってウエストスンバワへショ-トトリップに出掛けることにした。
目的はバケ-ションで趣味の釣りとサーフィンをゆっくり楽しむためであった。
バリからのアクセスは先ずロンボクへ飛び、陸路で東海岸の港へ移動、
そこから高速フェリ-に 乗り換えやっとスンバワ島の西海岸に到着。
サーフリゾ-トは港から約15分、オンザビ-チに 建っており、リゾ-ト正面右手にライト、
左手にレフトの波がきれいに規則正しくブレイクしている。
両ポイントは狭いパスを挟んでブレイクしているのでパドルでポイント移動が可能である。
お部屋はサ-フリゾ-トの好意でリビングスペ-スのある2ベッドル-ムへアサインしていただき
我々のテンションはMAXに達した。
マデは早々にバリから持ち込んだ自慢の3人分のフィッシングロッドとリール、
それにギアなどを 広いリビング一面に広げ、まるで子供のように目を輝かせていた。
この日はレフトのファンウェ-ブで軽く肩慣らし、翌日のピクニックを兼ねたボートトリップに備え早めに就寝。
翌朝目覚めると正面のビーチにはピクニック&サーフトリップに参加する宿泊ゲストが集まっていた。
顔ぶれを見ると、我々以外は皆白人で、オーストラリア、スペイン、フランス、ブラジルなど様々、 ゲスト10名+キャプテン&クル-の総勢13名のナショナルチ-ムとなった。
サ-フボ-ド、フィッシングギアの他、ピクニック用に大量の食料、飲料が積み込まれた。
天候は曇り、ウネリはそれほど高くないが風は昨日より少し強い。
我々を乗せたボートは2サイクルエンジンがけたたましい爆音を轟かせ目的のビーチを目指して走り出した。
目指すビーチまでは約1時間と聞いていたが、
ボートがキャンプのある湾の先端へ差し掛かったあたりから 半島に遮られていた風とウネリをまともに受けるようになり、急にボートの速度が落ちたように感じた。
岬の突端をこえ外洋に出ると風が更に強まり、ウネリも大きくなってきた。
ボ-トは相変わらずけたたましい爆音を響かせ全速前進と思われたが先程から視界に入る景色は殆ど変わっておらず船が前進している気配がない。
我々を乗せたボートは向い風、大きなウネリに加え、強いカレントとも戦っていた。
まして、我々のボートは完全に定員オーバ-、積載オーバ-状態だ。
キャプテンとマデが何やら話している。
この状況のまま先へ進むのは大変危険であると判断しピクニックは中止、リゾ-トへ引き返すことになった。
しかしボートは強いカレントで既に操縦不能状態。
ボ-トの船首と船尾を反転させている時に沖から大きなウネリが迫ってきた。
一発、二発と横波を食らう。
大量の海水がボートに流れ込み、我々は慌ててバケツで海水を汲み出すが、強いカレントに押されボートが 航行できず沖にボートの横腹を向けたまま同じ位置から脱けだせない。
そうこうしているとまた沖から高いウネリが迫ってきた。
ボ-トには再び大量の海水が流れこみ、こちらも総出で海水を外へ掻き出すが焼け石に水。
マデがサーフボ-ドを括り付けていた船尾に回り込みロープをほどいて我々のサーフボ-ドを全て海へ投げ放った と同時に次の波を受けたら ボートは間違いなく沈没する と叫んだ。
みんな荷物を捨てて海へ飛び込めと更に語気を強めて叫んだ!
沖に目をやると今までで最大級のスウェルが首をもたげて我々のボートを飲み込もうとしているではないか、一刻の猶予もない、 我々はとるものも取らず身一つで一斉に海へ飛び込んだ。
それとほぼ同時に大きなうねりがボートを飲み込みこんだ。
水中から顔を上げてボートの方向を見ると既に半沈状態で、積んでいた食料、飲料が海面に散乱していた。
船は操縦室の一部が辛うじて海面に出ており、キャプテンが屋根の上に上りSOSを発信していた。
カメラ、洋服、タオルなどの私物やマデの宝物であったフィッシングギア一式も海底深く沈んでしまった。
ちょうど私の目の前にAQUAのペットボトルが流れてきたので咄嗟に拾い上げラッシガ-ドの首元を広げて背中に差し込んだ。
この先、場合によってはこの水が生死を分けると瞬時に判断したのであろう。
我々はサーフボ-ドにまたがり救助隊から見つけられやすいよう輪を作り一つの塊となって助けを待った。
漂流して小一時間が経過しただろうか、一向に救助隊が来る気配はない。
ここは沖合何マイルだろうか、遠くにスンバワ島の山並みが見えているが周りは一面海に囲まれている。
こちらはサーフボ-ド一枚、大海原に木の葉が漂っているようなものだ、サメが出没しないことだけを願っていた。
風、ウネリは相変わらず強く、高く、海は荒れた状態である。
マデが大声でみんなに何か指示している、強い横風が言葉をさえぎってよく聞こえない。
マデの傍まで移動して聞くと間もなく潮が引き始め、カレントが沖に向かって流れ出す。
これだけ海が荒れていると仮に救助船が来ても我々の姿は波と波の間に隠され発見できない可能性があるので 潮の流れが変わって岸に戻る状況が厳しくなる前に今すぐパドリングで上陸を目指すというのだ。
彼はバリを代表するプロサ-ファ-であるが、その前に一人の漁師でもある。
海の事は熟知している。
当然だが彼の判断に異を唱える者は誰一人なく、
全員、微かに浮かぶ島影を目指してパドルを始めた。
私はパドルに自信がなく、持久力もない。
ましてこの距離をこの荒れた状況で果たしてこぎ続けられるのか? 不安でならなかったが生き延びるためにはやるしかない。必死でパドルし続けた。火事場の馬鹿力を信じて。
1時間、いや2時間はバドルしただろうか、視界に目指すビーチがハッキリ捉えられる。
やった!助かった!と思った瞬間、力が湧いてきてパドルもリズミカルになり推進力も増してきた。
上空にはヘリコプタ-の姿も、どうやら遭難したのが外国人の団体という事で国際救助隊が出動したようだ。
海岸には救助隊の他、警察や地元住民も姿も大勢見られた。
我々は誰一人脱落することなく全員ビーチにたどり着き抱き合ってお互いを称え生還を喜んだ。
そうだ!キャプテンやクル-は無事だろうか? そこへヘリコプタ-から無線が入った。
船の残骸が沖合の海面に散乱している、周りに人影は見当たらないと。
一瞬、諦めかけていた次の瞬間、再び無線が入り、沖合にある岩肌に掴まている3人を発見。
これから救助船が救助に向かうという知らせだった。 私は安堵から全身の力が抜けその場に座り込んでしまた。 13名全員の無事が確認された瞬間であった。
後日、マデからこんな話を聞かされた。
実は、あの朝、ボートがお気に向かう船中、胸騒ぎがして嫌な予感が頭をよぎったというのだ。
メンバ-は総勢13名、その日は13日の金曜日であった。
おしまい。